僕は昨年の今、プロ走高跳選手としてパリオリンピックに挑戦していた。全てのことをやり尽くしたが、日本選手権に戻ることすらできなかった。

僕が走高跳に出会ったのは、小学4年生の体育の授業だ。その時に越えた高さは1.00m。あの感動は今でも覚えている。家に帰るとその事を父に伝えた。すると父は、笑顔で褒めてくれながら、衝撃的な言葉を口にする。

「実はお父さん、1.91m跳んだことがあるんだよ」

呆然とした。当時の僕の身長は、140cmそこそこ。自分より遥か上を見上げた。

人ってこんなに高く跳べるんだ。

そこから僕の競技人生が始まった。父の背中を追いかけ、父を越えるために二人三脚で努力した。その5年後、中学3年生で日本一になる。1.96mを跳び、父を越えることができたのだ。

僕は地元で有名人になった。
テレビや新聞、ラジオに全部出演した。サインもたくさん書いた。当時はまだ、15歳。
順風満帆の中、当たり前のように次の目標を設定する。

オリンピックで活躍する。

高校は地元の強豪校に進学した。
日本のトップに居続けることに必死だった。日本一になることは、そう言うことだ。常に追われる立場である。自分で自分を奮い立たせ、そして追い詰めた。

高校3年生のインターハイ。3年前、日本一になった全国の舞台。記録なしで最下位だった。

大学は、東京学芸大学に進学した。
自分の可能性を信じ、あと4年だけ、、。
そして大学4年生で迎えた大舞台。2.18mを越えた。初めて試合で泣いた。

あと15cm。

オリンピック標準2.33mを越えるため、決まっていた就職先もお断りした。大学卒業後すぐに北欧スウェーデンに行き、オリンピック金メダリストのもとで修行した。ふるさと鹿児島で、最高な所属先に巡り会えた。

2.18mを越えて3年が経過した。
2024年6月2日。競技人生15年の大勝負をかけたパリオリンピック最終選考(日本選手権を決める試合)。結果は、1.90mだった。中学時代よりも跳べなくなっていた。

そこからだいぶ長い期間、身体が空っぽだった。

パリオリンピックへの挑戦を終えて半年が過ぎた頃、次の決断をする必要があると感じた。

自分は何をしたいのか。
この問いを自らに投げ続けた。河川敷の壁に野球ボールを投げ当てながら。

「多くの人が笑顔になる事をしたい。」
幼くして夢を見つけたことも、日本一になったことも、挫折も、喜びも、プロスポーツ選手になれたことも全て、僕にとってのかけがえのない財産だ。人生をかけて夢を目指した経験と、その軌跡で出会った素敵な方々との縁をフル活用して、世の中に価値あるものを生み出したい。これをしたいんだ。

そして2025年4月1日。JUMP HIGHを立ち上げた。※現在は、JUMP HIGH プロダクション

「走高跳だけでは食っていけない」この概念をぶっ跳ばす。

@これはまだ旅の序章である。

JUMP HIGH プロダクション
代表 久保木春佑

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